思考したことあれこれ
ふと『神のみぞ知るセカイ』読了後に考えた作品とは関係のない自分に関する思考のあれこれ。普段文章にはしないけど、自分がどういう経路で思考するのかの自分用メモ書き。
神のみについてあれこれ考える
→誰かに布教したいと考える
→布教できるような人があまりいない
→アニメや漫画の見方の違いによる?レベルという言葉は不適切。でも同じ観点や感想である必要がない
→自分はアニメや漫画に対して少しだけ知識がある?でもゲームに関してはそういった評価ができない
→ゲーム性や勝ち方、効率よいやり方、強さなどが一人で理解できることが少なく、教わってそれとなく断片的に理解していることが多い
→そもそも自分の力で努力して何かを学び理解したことがない、アニメや漫画も学生の時の受け売りからきっかけをもらったまま
→何かを努力したりやりこんだり熱中したことがある人は、たとえ別分野でもそういったことが経験則として生きてくる。特にゲームに関してはゲーム性をいち早く理解するのは経験則によるもの?
→学校は前から思っていたけど勉強の内容より勉強の仕方や習慣、勉強ではなくても努力の仕方や習慣を身に着けるところに思える。
→努力できる人は尊敬できる、自分はそういうのを恵まれた環境である程度知識の形で見聞きする場所にいれただけで、自分で身につけたものではない
→例えば自分が昔からやっているゲームを最近始めた知り合いがいて、最初は自分の方が詳しい状態にあるが、いずれ自分よりうまくなるというのを比較的身近に具体例として感じている(MTGとか)
→最近他人に対する尊敬というのが言葉だけになっていたけど、努力している人を尊敬できるという点で少し思い出せた
→でも尊敬というのはその人の努力や行動に対する敬意や親愛の形であって、自分を卑下するための物差しではない
→自分をマイナスにすることだけで相手を評価するのは失礼、相手がプラスである。
→マイナス思考の人間(自分もそのケが強い)はそういった意味で相手に失礼なところがあるのかもしれない
→ここまで考えて、今まで考えてある程度まとまった部分も、聞き覚えのある普遍的な言葉に置き換えてしまうと大したことを考えてなかったように思える
→今までそうやって特に言葉にしてこないこともあったが、逆に普遍的な言葉に落とし込むことは具体性に欠けて残らないのではないか
→昔俳句などでも勘違いしていたけど、犬も歩けば棒にあたるとか、そういう具体性や体験談をもってこそ共感があるんだなと改めて実感する
→具体的であることは抽象的であることに比べて伝わりやすいという程度にしか具体的であることを重要視していなかったし、具体的に物事を伝えることで相手の思考や判断を狭めてしまうと思っていた
→確かにその点もあるが、そもそも抽象的すぎると自分と相手の歯車がかみ合わず、残らないどころか永遠に回らないこともある。
→犬も歩けば棒に当たるのように、内包する意見は具体的で、その文章自体の意味は意見を決定づけない言葉が大事だと思った
→ここまで考えて、最終的に色々考えれること自体の楽しさ、考えている自分が好きでいられることは幸せだと思った
→これも学生の時に変われたことが大きいと思うが、ネガティブな人間は何か嫌なことに対して受け身になっているだけではなく、拡大解釈なりなんなりを出来る自分なりの意見を考える力があるのだと思う
→何かのきっかけや起爆剤があればそういった思考を広げてネガティブ以外の方向にも考えられるのかもしれない
→自分の好きなものに対してよりすごい知識を得たりとかする、打ちのめされてしまう危険もある、ネットで調べたりとかはそういう危険もあるから良き知り合いや出会いがあるとそこは楽かもしれない。
→平たく言えば妄想力があるみたいな感じ
→心理学の授業で大学生を最後に考え方はあまりかわらなくなるという意見にあまり賛同できなかった、一方でころころ変わると他人を振り回すなどの意見には賛同していた→今まで自由の中で核となるものを見つけるという考え方で、核の部分は比較的小さいイメージを思っていて、後は自由に変われるものだと考えていたけど、核はもっと大きくて、外周部分をこうやって考えていくことで少しずつ形を変えてカスタマイズしてちょっとずつ価値観が多様になっていくのかもしれない。
以上。